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絵本紹介(15)2013年07月16日 12:35

 題名   : 不幸な子供
 文     : エドワード ゴーリー
 絵     : エドワード ゴーリー
 訳     : 柴田元幸
 出版社  : 河出書房

 そういう絵本がある、とは聞いていましたが、実際接して読んでみると、なんと評して良いのか。今回はとてもブラックな絵本の紹介です。

 とても優しい両親と裕福な家庭に恵まれたシャーロットという女の子がいました。

 ある日軍人の父親が、赴任先のアフリカで死んだという知らせが届くところから、シャーロットの転落が始まります。
 悲しんだ母親はすぐに病を得て亡くなり、唯一の身内の叔父も突然の事故でこの世を去ります。

 弁護士によって寄宿舎に入れられたシャーロットは、教師からいわれのない差別を受け、同級生からもいじめにあいます。

 この辺りまでは、小公女とか、キャンディキャンディとか、どこかで聞いたことのある展開です。 
 が、ここからがスゴイ。 このお話ではこれでもかと言うくらいシャーロットは不幸の吹き溜まりの中に落ちていきます。

 結局最後には、実は生きていた父親が、愛する娘を探し回って操る馬車に轢かれて死んでしまうシャーロット。 とどめは、父親は変わり果てた自分の娘に気がつきもしなかったという徹底した不幸ぶりです。

 
 確かに、現実にそういう不幸な事例は世の中にたくさんあるのでしょうが、絵本になると生々し過ぎて目をそむけたくなります。
 この物語をはじめとするゴーリーの絵本はどれも、「善人はいつか報われる」という私たちが無意識に期待する世界を、あっさり裏切ってくれます。
 エドワード・ゴーリーはそんなショックを世の中に与えることで、「報われなくても、あなたは善良に生きていけますか?」と覚悟を問いかけているのかもしれません。
 いや、そう思わなければ胸糞悪くてやってられない、と言うのが正直な感想です。

 でも、先日お店にいらした若い男性のお客様は、ゴーリーの絵本の大ファンだと言われていました。曰くイラストが超カワイイと。
 日本でもそれなりの売れ行きを保っている絵本ですので、多くの方の支持があるのでしょう。私などにはわからない、ある種の感性に訴える何かを持っている絵本なのでしょうね。

 まだ読んだことの無い方は、話のタネに一読お勧めです。
 ただし、気の弱い方はやめた方が良いかも。

本とペン2013年07月17日 22:35

 数日前になりますが、パキスタン人の少女マララさんが国連で行った演説の一部を、テレビのニュースで見ました。

 マララさんはタリバーン運動が、女子から教育を受ける権利を奪っていることを、ブログや西欧のメディアなどを通じて批判して、タリバーンから命を狙われる存在になりました。
 そして昨年、通学途中テロリストに頭を撃たれ瀕死の重傷を負いましたが、奇跡的に回復し、テロを恐れず再び女子の教育権利を求める活動を再開したわずか16歳の少女です。

 その活動と遭難については新聞・TVを通して見知っていて、世界には立派な少女がいるものだと応援していましたが、初めて肉声を聞いた途端、いきなり心の真ん中に言葉が飛び込んで来たような感覚を得ました。

 まだ16歳の子供が、国連の議場の真ん中で、英語で、堂々と各国大使に語り掛ける姿は、大政治家の威厳すら感じられました。文字通り、命をかけた活動がオーラを生んでいるのでしょうか。そして比べること自体もはやナンセンスなのかもしれませんが、今TVで流れている政見放送で使われる「命がけで」「全力で」のなんと軽いことか。(中には気持ちが伝わってくる人もいることはいますが。。。)

 マララさんの言葉は、魂の込もった言霊、感動しました。

 演説の中でマララさんは、自分を殺そうとしたテロリストに対しても、「私はだれも憎んでいない。タリバーンやすべての過激派の息子や娘たちに教育を受けさせたい。」「過激派は本とペンを怖がる」「教育こそがすべてを解決する」と述べています。

 本当にその通りです。

 日本だって、つい70年前まで「女が学をつけると、ろくなことが無い」と公然と言われるような世の中でした。150年前までは、身分の低いものは代々身分が低くて、教育を受ける機会はほとんどありませんでした。だから、パキスタンやアフガニスタンの状況を他人事と無関心ではいられないように思います。

 当たり前の様に教育を受けられる環境に感謝して、どこの国に生まれても学びたい人が学べる社会の実現に、少しでも協力しなきゃと気づかされた演説でした。

そりゃやりすぎ2013年07月18日 21:30

 何気なくネットニュースを眺めていたら、アメリカで犬向けテレビ局が大ヒットという見出しを見つけました。

 えっ イヌ向け放送! 当世そんなものまであったの!?

 私も犬の飼い主ですが、さすがにそんなテレビ局と契約することは絶対ありえません。
 別に存在を怪しからんとは言わないし、必要だと思う方がお金を使うことを批判も致しません。
 
 ただ最近、錦の御旗のように掲げられる「経済成長」という言葉に、はてな、なんか変でないかい?と素朴な疑問を持っていた矢先でしたので、ああこれかとピピっときました。

 犬向け放送がヒットしているということは、顧客のニーズに応えた新しいビジネスが展開されて、市場と雇用を生み出す経済の成長が起きたと考えていいんですよね?
 そして経済成長は私たちが最優先すべきことなので、世の中が良くなるーと喜ぶべきことなんですよね?

 人間はいつでも、いつまでも成長を求める生き物なんですね。
 その行動こそがきっとサルからヒトを誕生させた性(さが)なのでしょう。

 いつも現状に満足することなく、もっと楽になるためにはどうしたら良いか、もっとおいしいものを食べるにはどうしたら良いか。もっと快適な場所がどこかにあるのではないか、そう考え続けたサルの子孫が私たちで、地球の「主」として大繁栄を遂げました。

 でも、その成長っていつまでも続けられるのでしょうか?
 どれだけ楽しても、どれだけ美味いもの食べても、どれだけ稼いでも、所詮一生で使える時間は決まっています。
 地球の大きさも資源も限りがあります。

 もうおなかいっぱいだと言っている人に、経済成長の為に頑張ってもっと喰え、と尻を叩いているのが今の先進国、今の日本の様に思えます。 

 満腹を通り越しても食べ続けなければ安心できない経済って、なんだか宮崎アニメに出てきたカオナシみたいで悲しいですね。

 犬向けテレビ放送って、動物愛に満ちた素敵なアイデアです。
 駅の雑踏でも自転車に乗りながらでもスマホでゲームが続けられるって、便利で楽しいことです。

すごい世の中になったものだなーと感心しつつ、
 でも、なんか違うなーという思いがあって、一言で表すならば、
 「そりゃあんた、やりすぎちゃいますか?」

 昔の人が自分を戒めた言葉、「足るを知る」って、いい言葉だなー。

朝の親子2013年07月19日 20:58

 今朝、住んでいる集合住宅の自転車置き場で、小さなお子さん連れのご家族と出会いました。
 お父さん、お母さん、4歳くらいの女の子、お母さんに抱っこされた赤ちゃんの4人家族です。
 
 お父さんは自転車で駅に、女の子はお母さんの自転車で保育園に行くところだったのでしょう。でも女の子はお別れがつらくてお父さんの足にしっかり抱き着いて、お父さんは困り顔。お母さんは女の子を一生懸命なだめている様子でした。

 朝の時間が無いときに、子供に予期せぬ行動に出られると大人は焦ってしまいますが、実は親にとってはハプニングも含めて、今がとても幸せな瞬間なんだよなーと思いつつ、遠い昔の甘酸っぱい気持ちを思い出していました。

 
 我が家の年長の子供がまだ小さい時、朝、保育園まで連れて行く役割を受け持った時期がありました。最寄駅まで自転車で15分もかかる不便な場所に住んでいて、しかも電車を1本逃すと大変、次は20分待つことに。
 保育園まで自転車を一生懸命漕いで、子供をおろして、さー駅まで急ぐぞと思っても、毎朝子供が私の腕をとって簡単には行かせてくれません。
 腕時計をにらみながら、何とか子供の気持ちを友達や先生に向けようとするのですが、焦るほどに子供が私の腕をつかむ力が強まりました。
 終いに「たのむよー。お父さん遅刻しちゃうよー。」と泣き落としでやっと解放。
 フッとため息をついた子供は、別れ際決まって私の手に「チュッ」として園庭に駈け出して行きました。「行きたくないよ。一緒にいたいよ。」の一言を我慢してくれた後ろ姿がいじらしくて、いつもジーンと来ながら駅に急いだものです。

 あの頃、もちろん子供を愛おしく思っていましたが、子育ては自分の都合と相いれない厄介な荷物でした。
 でも今振り返ると、子供に振り回されていた(と思っていた)頃が一番気持ちが充実して豊な時間だった様に感じます。笑わせてもらったり、どきどきさせてもらったり、気づかせてもらったり。
 厄介者扱いしないで、もっとゆっくり楽しむべき宝物の時間だったのかなと。

 最近は昔より男性の育児参加意識が向上しているようですが、”イクメン”なんてもてはやされているうちはまだ希少の証拠。
 逃したチャンスを悔やんでいる身としては、若いお父さんに言ってあげたい。
 「組織や世間体は忘れて、何が本当にたいせつか、素直に考えてみようよ。」
 「今だけだよ。」

ボローニャ国際絵本原画展2013年07月20日 12:37

 今週月曜日、板橋区立美術館で開催されている「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」に行ってきました。

 絵本に興味を持つようになってから、展覧会のタイトルに惹かれて行ってみたいなと思いつつ、毎年気が付けば終わってたというパターン。
 曲がりなりにも絵本屋のおやじデビューした今年こそと、日程を手帳とかカレンダとかスマホとか、あちこちメモしまくって、やっと忘れず出かけることができました。(どれだけぼけているんでしょうね、まったく。)

 絵本原画ということで、かわいらしさとかファンタジックとか、そういう種類のイラストがこじんまりとという会場を想像していたのですが、どうしてどうして。

 まず、結構なボリュームの展示品にびっくり。
 コンテストの入選者77名全員のイラストが5点ずつ展示されているので、ちょっとした美術展並みの作品数でした。

 絵に使われているテクニックは、鉛筆、インク、パステル、水彩、油絵、布、刺繍、CG、コラージュ、それらの混合と、実に多彩。絵の素人にとってはこんなにいろんな描き方があるんだーと妙に感心させられました。今まで何気なく見てきた絵本や児童書の挿絵は、実はイラストレーターがこんなにも一生懸命細部にこだわって仕上げていたのかと、そういう観点から絵本を見直してみるのも面白そうだなと思ったりしました。

 絵の種類は、かわいらしい絵、写実的な絵、緻密な絵、ちょっと怖いイメージの絵、シャープでシンプルな絵、実に様々でした。どの絵にも共通していることとして、そのままどこかの美術展に出展しても違和感が無いくらいの芸術品。たかが絵本とバカにすることなかれです。

 各イラストレーターが出展した5点の作品には、それぞれ短い説明が付いていて、その説明から物語を想像しながら見て回るのは楽しい時間でした。
 でもうっかりすると時間があっと言う間に過ぎていて、次の用事なんかがあると悲惨なことになりそうです。

 会場にはボローニャのコンクールで入選して、出版社に認められて絵本を出版した日本人作家の絵本も同時に展示されていました。
 どの絵本も従来日本で出版されてきた絵本の雰囲気とちょっと趣が異なって、それ故かフランス、スイス、ベルギーの出版社からの商品化です。 今はまだ日本での商業展開が難しいのかもしれませんが、海外で認められた若い絵本作家が少なからずいるということは、いずれ日本の絵本に新風が吹いてくるのかもと、ちょっと楽しみになりました。

 展覧会はこのあと8月11日まで板橋区立美術館。そのあと西宮市、高浜市、七尾市を巡回する予定です。

 それにしても、板橋区は毎年「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」を開催していたり、廃校を利用した「いたばしボローニャ子ども絵本館」を持っていたり、とても独特の活動をしていて面白い区ですね。

 でも区の面積が広いので、板橋区立美術館はちょっと交通が不便。
うっかり長居してしまって、急いで原宿のお店に向かわなければならなかった私は、地下鉄副都心線が乗り入れている和光駅までタクシーを使いました。
 ワンメーターに足が出るくらいかなとタカをくくっていたら、あら、走る走る。結局\1,600かかってしまいました。とほほ。
 
 あのー ¥1,600必要経費で申告しても良いでしょうか?Ushiさーん。